“5” is The Ugliest Number.
「1」とナンバリングされる映画タイトルはそうそうない。1作目は余計な装飾無しに、身ひとつで歩み出す。産みの苦しみの末に、いよいよスタートを切るのだ。「2」は祝福された数字。苦労が世間に受け入れられ、ヒットした証だ。シリーズとして進み続けることを許された。甘美なる響きの「3」、トリロジー。物語は最高潮に達し、美しき終わりを迎える。見事ゴール、ご苦労さん。
これが、「4」と来てしまったらこいつはもう最悪だ。余韻をぶち壊す大蛇足。カネのために魂を売り飛ばそうというのか。絶対いいことなんて起きない。よもや「5」だなんて……惰性で生きながらえていることを自ら認めるようなもんじゃないか。なんと醜い数字なんだ。
しかし、それでも人生は続く。「5」よ、せめてアンタはアンタらしく居直っていてくれないか。
(世間一般の映画に対する思いです。悪しからず……。)
さて、『トイ・ストーリー5』の話ですね。僕は最初の2作を幼少期にリアルタイムで楽しんだ世代で、『3』にも大いに心打たれ、公開初日の朝イチに半休取って意気揚々と向かった『4』に盛大に……盛大にガッカリした身です。『5』の制作発表時点から大いに呆れ果て、一分の期待も持たず、公開したとて世評がある程度固まってから観に行くか決めようかな……なんて態度で構え。そして公開初週末、朝イチの劇場に座っていたのです。
作品情報
- タイトル
- トイ・ストーリー5
- 制作年
- 2026
- 制作國
- アメリカ
- 監督
- アンドリュー・スタントン
- 出演
- (日本語/声の出演)
日下由美、広瀬アリス、佐野勇斗、
唐沢寿明、所ジョージ ほか
あらすじ
想像力豊かで内気な少女・ボニーの成長を、そばで見守ってきたカウガール人形のジェシー。しかし、タブレット〈リリーパッド〉の登場で日常は大きく変わる。
「みんなの時間がタブレットに支配されている」─他の子どもと同じように画面に夢中になり、このままでは遊びの中で輝いていたボニーの笑顔が失われていく…その一大事にジェシーは、ウッディに助けを求める。再びタッグを組んだウッディとバズと共に、ジェシーはボニーの心を取り戻すため立ち上がるが…。旅の途中で “ハイテクおもちゃ”のスマーティー・パンツたちと出会い、思いがけない協力によって物語は新たな方向へ──。
「トイ・ストーリー」が描き続けてきた、人間とおもちゃの絆。その先にたどり着く究極の“答え”とは?
引用元: 映画『トイ・ストーリー5』公式サイト
時が流れても、変わらないもの。それは…
デジタルデバイスの台頭による、オモチャ達の絶滅の危機。これも、「嘘だろ、いま、それをやるのか……?」と輪をかけて期待を下げる要因となっていました。子どもの遊びがオモチャ以外のモノに移ろいゆくなんて、それこそ僕の世代なら「ゲームボーイ」とか「遊戯王カード」とかいくらでもあったわけです。
本編を見て、僕のほうが襟を正しました。そう、そこなんですよ!『トイ・ストーリー』はシリーズで一貫して、移ろいゆく子どもの興味関心にどう向き合うかを題材としてきたシリーズ。それが(醜くとも)5作を重ねたことによって色濃く見えてきたというわけです。
時が流れても、時代は変わっても、「子どもは成長するし興味は移ろいゆく」という事実は不変。
『5』におけるデジタルデバイスはヴィランではなく、「興味が移る対象」の現行品に過ぎません。ストーリーを紡げるのであればハンドスピナーでもスクイーズでもボンボンドロップシールでも成立するでしょう。そして、本作ではメインキャラクターに抜擢されたカウガールのおもちゃ・ジェシーの目を通してこれにひとつの回答を示すのです。
『3』の呪縛はつづく
話題を少し遡りましょう。高評価を得ている『トイ・ストーリー3』一見、その本質は「オモチャに別れを告げるアンディと、シリーズを追ってきた観客(かつての子ども達)の心情がリンクする」点にあると思われがちですが、これはせいぜいラストのボニーとの場面に限定されるもの。全編を見渡せば、その面白さの核は、シリーズ最終作(当時)だからこそ、これまで禁じられてたカードを切りまくっているところにあると考えます。
具体的には、「オモチャの死」に真っ向から向き合ったシビアな描写の数々です。冒頭から目に見えて数を減らしたアンディの部屋のオモチャ達。屋根裏だの保育園だの、セカンドライフや終活じみたお話が展開され、一度はチラつかされる明確な”地獄への一本道”は、「このまま終わるのか?」と従来にない緊張感をもたらします。これは明確にファンタジーの魔法を解く行為であり、最後の1回だからこそ許される手口。その後に続くのは、輝きを失った現実だけです。
死を思ってしまったばかりに、以降もフランチャイズの中で天寿を全うすることを許されないオモチャ達が至った境地。それが『4』であり、『5』も延長上にあるんですね。一度「死」の概念を解き放ってしまった以上、終活とか老後みたいなしみったれた話を続けざるをえない。でも、大半の観客がシリーズに求めてるのはそこではなくて、大いなるミスマッチによる事故が起きたのが『4』であると僕は考えます。
では、延長上にある『5』も大事故なのか、と問われれば答えはノーです。この『3』によってもたらされた呪縛は受け入れつつ、ストーリーの主軸を別に移すことで、『5』はしみったれた現実に少しだけ魔法をかけてくれる、希望のある作品となりました。僕はこの映画、気に入りましたよ!
マチアプ時代の「友達のつくりかた」
本作の主軸は、周囲になじめず友達がいないボニーに居場所をつくってあげること。親が買い与えたタブレットデバイスでボニーは周囲に”同調”します。オモチャ遊びから半強制的に卒業”させられ”、その代わり順調に友達を獲得していくのです。一方で、オモチャ遊びを通じて友達づくりをサポートしようと邁進していたカウガール人形のジェシーは、ひょんなことから、かつての持ち主の住所へと送り届けられます。現在の住人は、ボニーのようにオモチャ遊びを好みながらも、すでに卒業した少女ブレイズ。
「アレを持ってないと仲間外れにされちゃう」という”あるある”をフックに、周囲に同調して得た居場所は、本当に自分のためのものなのか……という問い。これを当事者本人ではなく周囲が思い悩み、手を尽すところは歪な構造にも見えますが、子どもの悩む姿を前にしてやきもきするのもまた親心ではないでしょうか。親の心に同調するオモチャ達−−これもまた『3』が残した呪い、かつ『インサイド・ヘッド』的−−が行動を起こすのは当然の流れです。
やがて、オモチャをめぐり仲間内からのネットいじめにあってしまうボニー。これもまた、現代の親の頭を悩ませる問題です。一方、ジェシーはひょんなことから、かつての持ち主の思いに触れ、自分がただ置き去りにされたおもちゃではなく、彼女の人生の一部として共に生きていることを知ります。子どもの興味が移ろうのは止められない。それでも、大切な思い出の一部としていられるならそれでいい。冒険活劇の果てに、オモチャとデジタルデバイスはボニーのためと目的を共にし、再び彼女の元へ。デバイスを活用しながらボニーとブレイズを引き合わせることに成功するのでした。
30代も半ばを過ぎてなおオモチャを握りイヤイヤ社会人をやりながら、それでもたまに会うネットづての友人知人と楽しく遊んでポジティブに生きながらえている身としては、この帰結を否定することはできません。あるいは、周囲に合わせるのがニガテだな、と思っている当事者のキッズにとって、本作が光明となるのであれば。
そもそもオモチャは勝手に動かないんですが
一方で、人によって評価が分かれる部分も理解はできます。ストーリー展開に都合のよい機能が備わったデジタルガジェットたちや、人類のいい加減さを隠れ蓑にネット越しのコミュニケーションを活用しまくる展開。あるいは『3』以降、引き続きオモチャ達に備わる親目線を居心地悪く思う観客もいるでしょう。シリーズを追うごとに映像面のリアルさも増す中で、本作が引くファンタジーのラインをどれだけ許容するかが分水嶺となるのかと。僕は冒頭のデジタル漬けの子どもしかいない世界で「そんなわけあるかい!」とリアリティラインを引き下げたのですが。
また、「泣き映画」としてシリーズを観ている人−−何度出てくるんだ『3』の呪縛−−にとっては、本作のエモーショナルなポイント、ジェシーとかつての持ち主とのくだりが弱めなのも要因かも。しかしながら、上述の通りこの場面は本筋ではなくジェシーが覚悟を決めるきっかけであるため、作り手も過剰な泣きどころ演出は控えているように思いました。本筋が乗っ取られちゃうからね。
ウッディとバズを脇役に追いやり、とうとうメインキャラとなったジェシー(そしてイケボのブルズアイ)は『2』で描かれた回想を拾いつつの大活躍でしたし、スマーティー・パンツらガジェット組も大好き。オモチャ欲しい。逆に純然たるヴィランではなかったリリーパッドは、いい奴なんだけど視覚的には顔がついただけの板で面白みに欠けるし、ストーリーのために割りを食った役どころではありますね。
フランチャイズは老いさらばえる
総じて、シリーズ初期作に比肩するほどきれいにまとまった作品ではないのですが、多くの観客との距離を(意図せずして)取ることとなってしまった近作以降、ふたたび観客の手元に愉快なオモチャたちを戻すことができる、『トイ・ストーリー5』はそんなタイトルに仕上がりました。『4』のメッセージ性もそれほど棄損せずにこれを実現している点も偉いなぁと思いますが、これは『4』お好きな方どうでしょう。
楽しいながらに、『5』はそのナンバリング相応の老いが隠しきれていません。『3』でほぼ親目線を獲得したオモチャ達は、もはやお遊びのお友達ではなく、日々変わりゆく子どもとの接し方に苦悩する存在。そこには、作り手が加齢とともに得た実体験が反映されているように見えます。かつて初めて接する3DCG映画に目を輝かせていた子ども達が、今度は自分の子どもの手を引きながらシネコンに吸い込まれ、スクリーン越しに作り手へ共感するのです。
では、果たしてメインターゲットであるはずの子どもたちはいずこへ。もとより、『5』なんてナンバリングを冠した老舗シリーズは、子ども向けではないのでしょうか。目には楽しい場面も多いのでそれなりに満足はできるでしょうけど、『3』以降の”老い・ストーリー”から脱却できないと、老いの先に待っているのは……。
……ザッ……ザザザ……ッ……
(無線機のツマミを回すウッディの手)
ウッディ「おい?どうした軍曹、もう一回言ってくれ」
グリーンアーミーメン『繰り返します。この記事の筆者は独身男性。オモチャで遊んでいる30代の独身男性です!』
(窓の外からカメラが寄り、顔を見合わせるウッディとバズ)